2008年05月06日

1982年5月、日本へ

Aeroflot


一年間、「やきとり屋」さんでアルバイトをして、帰る旅費も貯まりました。

日本に帰る決心をして、5月の半ば頃だったと思いますが、帰りの切符を買いました。

どこで買ったのか覚えていませんが、勿論、安い航空券で、ソ連のアエロフロートです。

一年以上もお世話になった「ホテル・ニコル」に別れを告げて、シャルル・ドゴール空港に向かいました。

久し振りの搭乗手続きをして飛行機に乗り、パリを飛び立ちました。パリの街を上空から眺め、どんな気持ちだったのか、今となっては覚えていません。

途中、モスクワの空港に降ろされ、ソ連という未知の国の様子を興味深く観察しました。

無事に成田空港に着陸して、二年半に及んだ私の旅は終わりました。


世界のエアライン  エア・パニック -地震空港大脱出ー  エアライン Tシャツ★AEROFLOT  ルージェ/ブロック・フォアグラ
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2008年04月10日

エディット・ピアフ

EDITH PIAF VOL.1


エディット・ピアフは「バラ色の人生」「愛の讃歌」で有名な、フランスを代表する歌手です。

私がパリに滞在していた頃、ピアフが亡くなってから、もう20年近くが経っていましたが、パリの街のあちこちで、ピアフの歌を聞きました。BGMとして流している店もありますし、道端で手回しオルガンでも流していました。道端で歌っている歌手もいました。ピアフはフランス人の心の中に生き続けていました。

レコード屋に行けば、何種類ものレコードやカセットが並んでいました。当時はまだ、CDというものはありません。私もピアフのカセットを4本買って、ウォークマンで聞いていました。

心に沁みるあの歌声は誰にも真似はできません。ピアフの歌は永遠に残るでしょう。

ピアフがパリの貧しい家庭に生まれた1915年、アメリカのフィラデルフィアの貧しい家庭で、ビリー・ホリデイが生まれています。ビリー・ホリディの歌も永遠です。

二人の偉大な女性ヴォーカルが同じ年に生まれているというのも偶然とはいえ、不思議な感じがします。ピアフは47歳で亡くなり、ビリー・ホリディは44歳で亡くなりました。


エディット・ピアフ/エターナル  エディット・ピアフ/エディット・ピアフ  エディット・ピアフ/ディア・ピアフ ベスト・オブ・エディット・ピアフ  Edith Piaf / Little Sparrow  レディ・デイ:ザ・ベスト・オブ・ビリー・ホリデイ

エディット・ピアフ コンサート&ドキュメンタリー  エディット・ピアフ -天に届く声  エディット・ピアフ 愛の讃歌  ビリー・ホリデイ/ウルティメイト・コレクション  ビリー・ホリデイの真実
ラベル:パリ ピアフ
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2008年03月10日

履きつぶしたトニー・ラマ

TONY LAMAトニーラマスウェードウェスタンブーツN5442



サンフランシスコで買って、2年余り、私と共に旅をしたトニー・ラマもとうとう壊れてしまいました。

夏は日本から持って行った雪駄を履いていましたが、秋から春まではずっと、トニー・ラマを履いていました。

かかとやつま先に金具を打ったりして、大事に履いていましたが、靴底との境の革が破れてしまいました。それでも我慢して履いていましたが、雨の日には靴の中がびしょびしょになってしまい、こりゃダメだと諦めました。

新しいのを買おうと思って探し回りましたが、当時のパリではトニー・ラマは売っていませんでした。仕方なく、フランス製の無名ブランドのスウェードのウエスタンブーツを買いました。


Tony Lama/トニーラマ B1014  Tony Lama/トニーラマ J69514  Tony Lama/トニーラマ G6772 EE  Tony Lama/トニーラマ C2288  トニーラマTony Lama ウエスタンブーツP5310
ラベル:トニー・ラマ
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2008年02月21日

パリのカタコンブ

カタコンベ



いつ、誰と行ったのか忘れましたが、カタコンブと呼ばれる地下墓地に行きました。

当時、カタコンブはそれほど有名ではなく、入口もよくわからない所にあって、観光客も誰もいませんでした。

壁にそって、頭蓋骨がズラリと並んでいて、本当にびっくりしました。パリの地下にこんな世界があったなんて、信じられませんでした。

この大量の骸骨は一体、何なのか、当時、調べる事もできず、都会の地下に骨を並べるなんて、フランス人は不思議な事をするものだと感じました。


動画「The Catacombs of Paris


パリ20区物語  地下墓地  フランス随想  お墓参りは楽しい  パリ、ジュテーム
ラベル:パリ
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2008年01月05日

年が明けて、1982年

中森明菜/AKINA BOX〜紙ジャケット18枚組



「やきとり屋」さんでアルバイトをしながら、1981年は暮れて、1982年ににりました。

毎日、同じ事をやっていると、記憶には残らないようです。安ホテルと「やきとり屋」さんの往復で一日が終わり、休みの日は何をしていたのか、思い出せません。ただ、食事はバイト先で食べたので、学食には行かなかったように思います。

毎年、正月に行なわれるパリ・ダカのラリーが今年は中止になったとニュースで言っていました。当時もあったと思いますが、全然、知りませんでした。

ツール・ド・フランスは見た事があります。大通りを通行止めして、自転車が走っていましたが、有名なレースだとは知らず、大勢の見物人が邪魔だと思っただけでした。

さて、1982年の事を調べてみました。

2月8日、ホテル・ニュージャパンの火災で、33人が亡くなりました。次の日には、日航機が墜落して、24人が亡くなっています。歌手の江利チエミさんも2月に亡くなりました。

6月に東北新幹線の大宮、盛岡間が、11月には上越新幹線の大宮、新潟間が開通しています。

8月に女優のイングリッド・バーグマンが亡くなりました。

9月にモナコ妃のグレース・ケリーが交通事故で亡くなりました。

ヒット曲は、細川たかしの「北酒場」、五木ひろしの「契り」、岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」、あみんの「待つわ」、松田聖子の「赤いスイートピー」と「渚のバルコニー」、日野美歌の「氷雨」、中森明菜がデビューして、「少女A」がヒットします。小泉今日子もこの年にデビューしています。

テレビでは「笑っていいとも」が始まりました。

そして、女優の深田恭子、加藤あい、アン・ハサウェイ、中日ドラゴンズの中田選手、ヤクルト・スワローズの青木選手、水泳の北島康介とイアン・ソープ、歌手の小柳ゆきが、1982年に誕生しました。

もう、26年も前の事です。


イングリッド・バーグマン / カサブランカ グレース・ケリー / 泥棒成金 アン・ハサウェイ / プリティ・プリンセス 江利チエミ / 歌の宝石箱 小泉今日子 / 厚木I.C. 岩崎宏美 / PRAHA
ラベル:1982年
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2007年12月06日

ウォークマンでモーツァルトを

モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集 / ピリス



スペインに行く前、パリの中央市場跡には大きな穴があいていて、工事中でしたが、半年後に戻って来たら、そこにショッピング・モールが出来ていました。その中の電器屋さんで、ウォークマンを買いました。初代のウォークマンです。

安ホテルにはテレビもなかったので、幾分、文化的な生活を送る事ができるようになりました。

日本にいた時、クラシックなんて滅多に聴きませんでしたが、ヨーロッパにいると、クラッシック音楽が身近に感じられて、モーツァルトやベートーヴェン、ベルリオーズ、ショパンなどのカセットテープを買っては聴いていました。勿論、ジャズも聴きましたが‥‥‥

特にモーツァルトは気に入って、日本に帰る時に、モーツァルトのピアノソナタ全集とピアノ協奏曲全集のレコードを買って帰りました。


モーツァルト:ピアノ協奏曲全集 / アシュケナージ ベートーヴェン: 交響曲全集 / カール・ベーム ベルリオーズ:幻想交響曲 / マゼール ショパン: ワルツ集&バラード集 / コルトー  ソニー ウォークマン NW-A919
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2007年11月10日

パリの「やきとり屋」さん2

五輪真弓 / 恋人よ



モンパルナスの「やきとり屋さん」には店長のH氏と従業員が私を入れて4人いたと思います。

一人はカウンターの中で焼き鳥を炭火で焼き、一人はサラダを盛ったり、御飯やスープを盛り、後の3人でサービスをしました。

10時頃出勤して、開店準備をやり、11時にオープンして、2時頃に一旦、閉めて、また5時頃にオープンしたように記憶しています。

焼き鳥の種類はネギマ、ササミ、手羽、レバー、砂肝、ピーマン巻き、つくね、ウズラの手羽などがあって、七種類のコースと九種類のコースがありました。

デザートは数種類のシャーベットとガトー・ジャポネがありました。ガトー・ジャポネは、どら焼きでした。

店内に流す音楽はカセットテープで、私が勤め始めた頃、毎日、五輪真弓の「恋人よ」が流れていたのを思い出しました。そのうちに、私もカセット・テープを持って行って、ジャズなども流しました。


矢沢永吉/THE GREAT OF ALL LIVE/長渕剛 100万$ナイト / 甲斐バンド 山口百恵/春告鳥 渡辺貞夫/モーニング・アイランド
ラベル:パリ
posted by 酔雲 at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅-4(フランス編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月15日

パリの「やきとり屋」さん

モンパルナスの灯


一ヶ月位、ホテルに籠もって小説を書き続け、完成した頃には懐も寂しくなりました。

当時、パリには10数件、日本人の経営する日本食のレストランがありました。アルバイトの募集をしていないか何件か回って、「やきとり屋」というレストランに決まりました。

「やきとり屋」といっても、居酒屋ではありません。前菜があって、サラダが付いて、数種類の焼き鳥がメインディッシュで、デザートも付くコース料理を出すレストランです。お客も日本人はあまりいなくて、地元の人たちばかりでした。

「やきとり屋」さんはパリに4軒あったように思います。サンジェルマン店、サンミッシェル店、モンパルナス店、もう1軒は思い出せませんが、どこかにあったはずです。私が勤める事になったのはモンパルナス店でした。毎日、ホテルから歩いて行きましたが、20分位だったと思います。


モディリアーニ  キキ  ハウスネイション ティー・ダンス−プレミア・ギグ  モンパルナス  デュポン ガスライター モンパルナス
ラベル:パリ
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2007年07月27日

偶然の再会

ルクサンブルグ公園


三月の半ば頃だったと思います。

ルクサンブルグ公園をブラブラ歩いていたら、向こうから見た事あるような顔が見えました。

マドリッドで一緒に遊んだ画家のE氏でした。私がマドリッドを出る時、三月の半ばにパリに寄って日本に帰るとは言っていましたが、まさか、再会できるとは思ってもいませんでした。

当時、携帯電話なんて夢の話で、別れてから連絡を取り合っていたわけでもありません。本当に偶然の再会でした。

その時、私がどこに行こうとしていたのか、彼がどこに行こうとしていたのか覚えていませんが、公園の中を通らなければ出会う事はできず、また、一分早くても、遅くても出会えなかったでしょう。

その時は、お互いに「やあ」と言って、多分、一緒に食事でもしたのかもしれませんが、今、思えば、不思議な事でした。


NEWフォンダンショコラ  ゲランドの塩「海の果実」  鴨ロース  キャビア&フォアグラセット
ラベル:パリ
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2007年06月25日

パリの安ホテルで小説執筆

さらば愛しき女よ/レイモンド・チャンドラー


ホテル・ニコルに落ち着いて、なぜか、私は小説を書き始めました。

シナリオは何作か書きましたが、小説を書くのは初めてです。好きなハードボイルド作家、レイモンド・チャンドラーとダシール・ハメットを見習って、推理小説を書いてみました。

今、思い出してみても、どうして、パリで小説を書いたのかは覚えていません。もしかしたら、天の声でも聞いたのでしょうか。

小説の舞台はパリではなく、東京で、私立探偵が行方不明になった音楽家の娘を捜すという話です。

パリには原稿用紙がないので、普通のノートに書きました。400字詰めの原稿用紙にして、500枚くらいです。

学食に行く時と、何日か置きに公衆シャワーを浴びに行く時以外は、部屋に籠もって書き続けました。一月くらいで書き上げたと思います。

その小説「蒼ざめた微笑」は日本に帰ってから、少し手を加えて、江戸川乱歩賞に応募しました。一次予選を通過して、二次予選では落ちましたが、これはいけると確信して、以後、小説を書き続けています。


ロング・グッドバイ  フィリップ・マーロウの事件  フィリップ・マーロウのダンディズム  チャンドラー人物事典  The Maltese Falcon   世界ミステリ作家事典(ハードボイルド・警察小説・サス)
ラベル:パリ
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2007年05月26日

オテル・ドゥ・マーシャル・ネイはつぶれていました

ダ・ヴィンチ・コード


1981年の春、パリに戻って来ました。駅からテクテク歩いて、懐かしいオテル・ドゥ・マーシャル・ネイに行ったら、なんと、つぶれていました。

まいったなアとしばらく、呆然とたたずんでいました。

ここにいた日本人たちはどこに行ってしまったのだろう。何か問題でも起きて、みんな、追い出されてしまったのだろうか。

どうしようかと考えましたが、一本向こうの通りに「ホテル・ニコル」という安ホテルがあったのを思い出しました。私は泊まった事はありませんが、マーシャル・ネイが満室だった時、そっちのホテルに泊まって部屋が空くのを待っていた人がいました。

さっそく、行ってみました。一泊の料金は20フランだったと思います。マーシャル・ネイより5フラン高いけど仕方がありません。案内されたのは、少し離れた所にある別館でした。

部屋は狭くて、ベッドと机と流しと洋服ダンスがあるだけで、小さな窓が付いていました。確か、四階か五階だったと思います。勿論、エレベーターなんてありません。

その部屋にそんなに長く滞在するつもりはなかったのですが、結局、一年以上、お世話になる事になります。長期滞在している人も何人かいましたが、日本人は見かけませんでした。


勝手にしやがれ  パリの恋人  オペラ座の怪人  パリは気まぐれ  ドンファン  ムーラン・ルージュ
ラベル:パリ
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2006年09月10日

ポリスに捕まり国外退去

ノートルダム寺院


リボリ通りで絵を売っていて、見回りのお巡りさんとは何度か会いました。

初めの頃は何も言わずに、絵を見るだけで立ち去って行きましたが、三ヶ月を過ぎた頃だったでしょうか、注意されて店を片付けた事が二、三度ありました。

8月の半ばを過ぎた頃、二人組のお巡りさんがやって来て、また、店をたたまなくてはならないかなと思っていたら、パスポートを出せと言われました。今まで、そんな事はなかったので、これはまずいと思いながらも、パスポートを見せました。

今はどうか知りませんが、当時、観光ビザは三ヶ月でした。思ったとおり、ビザが切れていると言われ、そのまま、交番に連れて行かれました。

お巡りさんは英語がまったくわからず、こっちはフランス語がわからずで、片言英語で話しても全然通じません。それでも、パスポートを見ながら、書類を作って、明日の9時までに警察署に行くようにと、紙切れをくれました。

多分、国外退去だろうと思ったので、ホテルに帰って、仲間たちと相談しました。ビザが切れていてもレストランとかでアルバイトをしている人は大勢いました。いちいちパスポートを調べには来ませんから大丈夫です。私の場合は毎日、同じ場所で絵を売っていたので、ごまかしようがありません。みんなの話を聞いて、スペインは物価も安いし、食べ物も日本人の口に合うというので、とりあえずは、スペインに出ようと決めました。

翌日、警察署に出頭しました。警察署はノートルダム寺院の前にあったと思います。指定された場所に行くと何人もの不法滞在者らしき人たちがいました。名前を呼ばれた人から順に別室に入って行きました。

私はずっと待っていました。言葉がしゃべれないので、ただ、名前を呼ばれるのを待つのみでした。待っても待っても呼ばれません。私よりも後に来た人も去って行き、私は1人取り残されました。夕方の4時頃になっていたと思います。仕方ないので、私の方から紙切れを見せて、ようやく、別室に通されました。

何を聞かれたのか忘れましたが、担当の係員がパスポートを見ながらタイプライターで書類を作成して、フランスから出て行けと言われ、終わりました。

何月何日までに出て行けと指定されたわけではなく、ただ、出て行けと言われただけでした。別に出て行かなくてもわかりはしないとも思いましたが、もう、あそこで絵を売る事はできません。

スペインの情報を集めて、2日後くらいには、半年近く滞在したパリを後にしたと思います。パリを去る前の晩、みんなと乾杯しましたが、残念ながら、シャンパンではなく、安いワインでした。


ヴーヴクリコ・イエローラベル・サルマナザール  クリュグ ヴィンテージ・ブリュット 1995  サロン・ブラン・ド・ブラン 1996年  フィリポナ クロ・デ・ゴワセ 1992年  ドン・ペリニヨン レゼルヴ・ド・ラベイ(ドンペリゴールド)
ラベル:パリ
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2006年09月05日

パリの日本人

クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス


そろそろ、パリのネタも尽きてしまいました。2月の末か3月の初め頃、ニースからパリに来て、8月の末頃までパリに滞在していました。余程、天気が悪くない限りは毎日、絵を売るためにリボリ通りのムーリスホテル前まで通っていました。時には場所を変えて、ポンピドーセンターの広場で売った事もありましたが、あまり売れないので、また、リボリ通りに戻りました。

ポンピドーセンターには様々な芸人がいて、芸を披露していました。大きなノコギリで音楽を奏でる人、ピエロの格好をしたパントマイム、玉乗りの曲芸もいました。アクセサリーや民芸品を売っているアフリカ系の人もいました。ギターを持った若者の回りには若い人たちが集まって、ボブ・ディランの「風に吹かれて」を合唱していました。

トランペッターが哀愁のあるメロディーを吹いていた事もありました。絵もそうですが、音楽は国境もなく誰にでもわかるので素晴しいと思いました。トランペットが吹けたら、世界中、どこに行っても生きていけるような気がして、うらやましく思い、私も日本に帰ってから、トランペットを始めましたが、結局、中途半端なまま、最近はまったく吹いていません。

今、思い出しましたが、顔を白塗りにして、白い浴衣を着て、不思議な音楽に合わせて不思議な踊りをしている日本人がいました。浴衣をひるがえしながら広場を走り回っていました。見物人も結構いて、拍手をもらっていました。彼とは何度も会いましたが、一度も話はしていません。

パリという街は不思議な所で、日本人は大勢いますが、なぜか、お互いに声を掛ける事無く、無視しています。パリに住んでいる日本人は自分はパリジャンだとでも思っているのでしょうか、貧乏旅行者をさげすんでいるような気がしました。

私が絵を売っている前も観光客の日本人が通りますが、皆、私を無視します。声を掛けて来るのは100人に1人くらいでしょうか。私の絵を買ってくれた日本人はたったの1人でした。皆、バカな日本人がいるといった目で見て行きました。


ヤマハ トランペットジャズモデル YTR-8335GH  バック トランペット 180ML 37SP  BACH TRUMPET TR-600S  シルキー トランペット B5 GP  ジュピターポケットトランペットPT-416
ラベル:パリ
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2006年08月24日

パリの銭湯

マリー・ローランサン


安ホテルのマーシャル・ネイには当然のごとく、シャワーは付いていませんでした。

パリの気候は乾燥しているのか、あまり汗をかく事がなく、毎日、シャワーを浴びる必要はありませんでした。シャワーを浴びないので、香水が発達したというのを聞いた事があります。私には香水など、まったく縁のないものでしたが‥‥‥

たとえ汗をかかなくても、やはり、時々はシャワーを浴びなければ気持ち悪くなります。そんな時は銭湯に出掛けました。銭湯と言っても、公衆シャワーです。

パリに何ヵ所かあって、コイン式のシャワーがずらりと並んでいました。料金は5フラン(当時、300円前後)はしなかったと思います。今、思い出そうと思っても、どこにあったのか思い出せませんが、週に二度位、通っていました。下着類はその時、一緒に洗っていました。シャンプーなどの日用品はパリで買って使っていたのでしょうが、まったく覚えていません。シャワーのないアパートも結構あるらしくて、いつも盛っていたました。

公衆シャワーはありましたが、洗濯をするコインランドリーはなかったように思います。アメリカにいた頃はよくコインランドリーで洗濯しましたが、パリで行った記憶はありません。ホテルの流しで手洗いしていたようです。


シャネルNO,19 ゲラン ミツコ オーデトワレスプレー クリスチャンディオール : ピュア プワゾン ジバンシー : アマリージュダムール
ラベル:パリ
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2006年08月18日

パリの学食には助かりました

ソルボンヌ大学


学生食堂は各区ごとにあったと思います。

お昼と夕食をやっていて、共に5フラン(当時、300円前後)でした。マーシャル・ネイの仲間と連れだって、あちこちの学食に行きました。翌日のメニューが知らせてあったので、情報を交換しながら、うまそうな所を選んで行きました。

輪切りのバケットは食べ放題で、内緒で持って帰る者もいました。主食はマッシュ・ポテト、フライド・ポテト、ピラフ、豆類、肉や魚もあったのかもしれません。ドーナツ風のパイにクリームソースをかけた料理もありました。変わった所では豚の皮と羊の脳みそが出ました。豚の皮は毛が生えていて、ブヨブヨしていて、あまりうまくはありませんでした。羊の脳みそは白子のような味で、食べられない事はありませんが、あまり気持ちいいものではありません。

デザートも必ず付いていて、ヨーグルトやナチュラル・チーズなどが出ました。飲み物はなかったような気がします。

カルチェ・ラタンの近くにアラビア料理を出している学食がありました。独特な香辛料の匂いがして、当然、アフリカ系の学生が多く利用していました。そこで、初めてクスクスというものを食べました。辛いチョリソーなども出て、結構うまかったので、よく出掛けました。

食券は10枚つづりを「アン・キャルネ」と言って、学生証を提示する事もなく、誰でも買う事ができました。どう見ても学生に見えない40歳の易者さんでさえ、何の問題もなく買えました。フランス人の大らかさには本当に感謝です。もし、食券を買う事ができなかったら、パリに長期滞在する事はできなかったでしょう。


クスクス  ピリカラチョリソー250g  フォアグラ ド カナール  レアルイベリコ協会認定!ハモンイベリコベジョータ原木
ラベル:パリの学食
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2006年08月15日

金髪美人の嫁さんを捜して

マリリン・モンロー/紳士は金髪がお好き


オテル・ドゥ・マーシャルネイに金持ちの易者さんが泊まっていた事がありました。

歳の頃は40位だったでしょうか、稼いだ100万円を持って金髪美人の嫁さんを捜しに来たと言っていました。どうして、安ホテルに来たのか、よく覚えていませんが、多分、私が絵を売っている所に来て、そのまま、ホテルまで付いて来たのかもしれません。現金の100万円は持っていても、荷物は破れた紙袋一つだけの変わった人でした。当時、22歳だった私から見れば、おじさんそのものといった感じでした。

その易者さんと同じ頃、二十歳位のカリアゲ君もマーシャル・ネイにいました。彼も私が絵を売っている所に来て、話し掛け、ホテルまで連れて行ったのかもしれません。よく、三人でブラブラしていたのを覚えています。

私が絵を売っている場所の近くに化粧品屋さんがあって、日本人の店員さんがいました。金髪美人の店員さんもいて、易者さんは何とかモノにしようと通っていましたが、振られたようでした。パリの街で嫁さん捜しをしていましたが見つからず、北欧に行くと言って旅立ちました。しばらくして戻って来ましたが、結局、見つける事はできず、金もなくなり、また金を溜めて出直して来ると言って帰って行ったと思います。

カリアゲ君はその易者さんに髪の毛を切ってもらい、カリアゲにされて、その時の印象が強かったのかもしれません。彼を思い出すとカリアゲというイメージがあります。カリアゲ君の方は金がなくなって、私の部屋に何日か居候していた事もありました。ホテルのおばちゃんに見つかって、ごまかすのが大変でした。日本から金を送って貰ったのか忘れましたが、そのうち、いなくなりました。

26年も経った今、二人とも随分と変わった事でしょう。パリの道端で絵を売っていた奴の事を思い出してくれたら幸いです。


顔を読む  的中手相術  手相診断  ひとめぼれの法則  占星術百科
ラベル:パリ
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2006年08月08日

マーシャル・ネイの旅人たち

マザー・テレサ


オテル・ドゥ・マーシャル・ネイには半年近く滞在していました。色々な旅人と出会いましたが、日本人が一番多かったように思います。

「地球の歩き方」に出ていたらしく、金のない日本人の溜まり場のような感じでした。そのホテルに滞在しながら、日本食のレストランでアルバイトをしている人も何人かいました。

インドから来たYさんもレストランでアルバイトをしていました。Yさんはインドのカルカッタでで、マザー・テレサの「死を待つ人々の家」で働いていたようです。私は彼の話から、マザー・テレサという人を知りました。名前は聞いた事はあっても、詳しい事は知りませんでした。世の中には凄い人がいるなあと感心しました。そして、インドという国にも興味を持ち、行って見たいと思いました。彼の話を聞いて、インドに旅立った人もいたと思います。

アフリカから来た人や、物価の高い北欧から流れて来た人、危険な中近東を旅して来た人もいました。あちこちをフラフラと旅をして来た人たちがパリにたどり着いて、落ち着くのがマーシャル・ネイでした。皆、色々な体験をしていて、話を聞くだけで参考になりました。色々な情報も手に入ったので、本当に助かりました。

私がパリを出て、半年後に戻って来た時には、潰れてしまってありませんでした。残念な事です。

マザー・テレサ  マザー・テレサ  マザー・テレサ最後の愛のことば  マザー・テレサ愛の花束  マザー・テレサ語る
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2006年08月03日

憧れのパリジェンヌ

ダニエル・ビダル


当時、パリジェンヌといえば、ダニエル・ビダルでした。「オー!シャンゼリゼ」がヒットして、日本の歌謡番組に何度も出ていました。まるで、人形のような可愛らしさでした。

あんな美女がパリには何人もいるのだろうと思っていましたが、実際、パリで、おっ!と思って見とれてしまう程のパリジェンヌにお目にかかったのは4、5回といったところでしょうか。

パリにはあらゆる民族の人たちがいました。国際的な観光都市なのだから当然なのでしょうが、アフリカ系、アラブ系、アジア系と様々な人が様々な言葉で話しながら街を歩いていました。

ロンドンもそうでしたが、あらゆる民族の人たちが当然のように暮らしているのには、初めの頃は驚きました。東京も国際都市のはずですが、あんなにも外人はいません。海外から日本を見ると、相変わらず鎖国をしているように感じました。

当時、フランスの女優で活躍していたのはカトリーヌ・ドヌーヴとイザベル・アジャーニ、その二人しか思い出せません。フランス映画の低迷期だったのでしょうか。

シャンソンではシルヴィー・バルタンやフランス・ギャルがまだ現役で活躍していました。ホテルにはテレビがなかったので、見た事はありませんが、街中に流れていたと思います。

ポンピドー・センターの近くに何とか通りというのがあって、そこにパリジェンヌたちが並んでいました。実際はパリジェンヌではないのでしょうが、娼婦さんたちです。北駅の近くにもあったように思います。相場はちょいの間で200フラン位だったでしょうか。残念ながら、お金のない私には縁がありませんでした。


オー・シャンゼリゼ〜ベスト・オブ・ダニエル・ビダル    シルヴィ・ヴァルタン/RCAイヤーズ1961-1983  改訂版 シャンソン名曲大全集  La Chanson シャンソン全集
ラベル:パリ
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2006年07月31日

ロダンのキス

ロダンのキス


「考える人」で有名なロダンの美術館はナポレオンの墓があるアンバリットの近くにあります。

勿論、ホテルから歩いて行きました。南の方に歩いて行ったと記憶していましたが、どうも違っていました。モンパルナス通りを西に向かって歩いて行ったようです。

庭に「考える人」が含まれる「地獄の門」が展示してあって、館内には色々な作品が展示してあったのでしょうが、あまり覚えていません。ただ、大理石の小品で、裸の男女がキスしている作品がいくつかあって、それは印象深く覚えています。

小さい作品ながら、あまりにも見事で、人間の手で、こんなにも美しいモノが彫れるのだろうかと不思議に思うと共に、ロダンの偉大さを改めて思い知りました。


Rodin  ロダン  オーギュスト・ロダン  ロダン事典    フランソワ・オーギュスト・ルネ・ロダン  
ラベル:ロダン パリ
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2006年07月27日

モロー美術館には何度も行きました

サロメ


モンマルトルの近くだったと思いますが、ギュスターヴ・モローの美術館には何度も通いました。

モローの描く、あの独特な絵は海外に出る前から好きで、パリに滞在中に、美術館がある事を知って、さっそく出掛けました。

モローが住んでいた家がそのまま美術館になっていて、見慣れた絵がいくつも展示してありました。

実際に見た本物の絵は思っていたよりも大きく、不思議な力に圧倒されました。モローの絵を一度にこんなにも見られるなんて、ほんとに感激しました。デッサンや水彩画などの習作も数多くあって、色々と勉強にもなって、見ごたえのある美術館でした。

モローの絵を眺めながら、あんなタッチで、日本の神話を描いてみたいと思ったりしましたが、未だに描いてはいません。そのうち、挑戦してみようと思います。

あれから20年も経って、パリも随分と変わったと思いますが、もし、パリに行く機会があったら、モロー美術館だけは必ず行って、もう一度、じっくりと絵を眺めたいと思います。


ギュスターヴ・モロー  ギュスターヴ・モロー  ギュスターヴ・モロー  サロメ図像学  NHK世界美術館紀行(1)
ラベル:モロー パリ
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2006年07月23日

モディリアーニはいいですね

モディリアーニ


ポンピドー・センターの中に近代美術館があって、そこにも何度も出掛けました。

知っている画家の見慣れた絵の本物がいくつも展示してありました。

ピカソ、セザンヌ、シャガール、マティス、ゴッホ、ゴーギャン、ドガ、ユトリロ、ロートレック、モネ、マネなど、挙げたらきりがありません。

ピカソの絵はキャンバス地がそのままの絵が何点もあって、初めて見た時には驚きました。その逆にルオーの厚塗りにも驚きました。

私はエコール・ド・パリの画家が好きだったので、モディリアーニ、キスリング、スーチン、ヴァン・ドンゲンの絵が見られたのは感激でした。

ポンピドー・センターの中の近代美術館は国立で、それとは別に市立の近代美術館があって、そっちにも行きました。パリに滞在中に、モディリアーニ展がそこで開かれました。

モディリアーニの絵は個人の所蔵が多く、まとめて見る事はなかなかできないので、迷う事なく見に行きました。

モディリアーニの絵はほんとにいいですね。何と言ったらいいのか、言葉では表せませんが‥‥‥

モディリアーニは彫刻家になりたかったらしく、彫刻も何点かありました。アフリカを思わせるような彫刻だったと思います。

彼の傑作をずらりと見る事ができたのは、本当に運がよかったと思います。


モディリアーニ『ネクタイの女』リトグラフ  モディリアーニ『腰かける裸婦』複製    モディリアーニ『赤毛の女』複製  モンパルナスの灯  モディリアーニ 真実の愛
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2006年07月18日

ルーブル美術館にピラミッド?

ドラクロアの自由の女神


ルーブル美術館には何度も行きました。確か、毎週水曜日は無料で入れたと思います。

あの頃、「ダ・ヴィンチ・コード」に出て来るピラミッドはありませんでした。一体、どこに作ったのだろうと不思議に思って調べました。ああ、あそこなのかと納得しましたが、なぜ、あんな所にピラミッドを作ったのか、わけがわかりません。

初めて、ポンピドー・センターを見た時も、工事中の建物だと思いました。フランス人は変わった事をして驚かすのが好きなのでしょう。ポンピドー・センターに行く途中の建物の壁にも面白い絵が描いてあったのを思い出しました。

あまりにも広く、あまりにも多くの作品が展示してあるので、今、思い出そうと思っても何があったのか、なかなか思い出せません。

「モナリザ」は勿論、覚えています。特別なガラスの中に飾ってあって、そこだけはいつも見物人でいっぱいでした。「岩窟の聖母」も覚えています。見た事は確かですが、モナリザの近くに展示してあったのかは覚えていません。

あと思い出せるのは、ラファエロの「聖母子」、ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」、アングルの「トルコ風呂」、ドラクロアの「自由の女神」くらいでしょうか。

ドラクロアといえば、当時の100フラン紙幣に、ドラクロアの自画像が描いてあったような気がします。100フラン紙幣にはあまり縁がありませんでしたが‥‥‥

馴染みのあったのはベルリオーズが描いてあった10フラン紙幣です。当時は10フラン銅貨と同時に流通していました。あの頃、新しく20フラン紙幣が発行されて、ドビッシーの絵が描いてありました。50フランは誰だったのか思い出せません。500フラン紙幣もあったと思いますが、まったく縁がなかったので、誰だかわかりません。多分、両方とも芸術家だったのでしょう。芸術家の顔を紙幣に載せるなんて、やはり、フランスらしいです。


ルーヴル美術館  ドラクロワ色彩の饗宴  レオナルド・ダ・ヴィンチ 全絵画作品・素描集  ベルリオーズ:幻想交響曲
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2006年07月13日

仕方なく、日本にSOS

オペラ座


昼は絵を売り、夜は絵を描くという毎日が続きました。

初日は200フランを超え、次の日も100フランを超え、毎日、100フラン以上の売り上げがあれば、何とか生活できるので、うまく行ったと思いました。

絵を描くのも気合が入って、夜遅くまで描いていました。しかし、順調に行ったのは一週間位で、その後は売り上げも落ち、一枚も売れない日もありました。

それでも、やめるわけには行きません。売り始めたからには1000枚は売ろうと頑張りました。しかし、もう一度、無一文になってホテルを出たくはありません。

仕方なく、日本にSOSを送りました。どうやって、国際電話を掛けたのか覚えていません。現在のように携帯電話で国際電話を掛けるなんて夢のような話です。

どこかの電話局に行って、コレクトコールを掛けたのでしょう。電話を掛ける前に、オペラ座の近くにあった東京銀行に口座を作ったのだと思います。その口座にお金を送ってもらいました。通帳に入ったお金の金額を見て、頼んだ金額以上だったので、ホッとすると共に両親に申し訳なく思いました。

日本を出てから半年が過ぎ、本来なら帰国しているはずなのに、パリから国際電話で無心するなんて、驚いたことでしょう。すみませんでした。

送って貰ったお金は少しだけ下ろして、そのまま、安ホテルに滞在しながら、絵を売り続けました。


Newcar! Citroen C6 Linarge【Pallas】シトロエン C6 リナージュ/パラスターボディーゼル  Newcar! Citroen C6 Exclusiveシトロエン C6 エクスクルーシブ2.7 ターボディーゼル  新車シトロエン C2 1.1 パック アンビアンス  RENAULT4ルノー キャトル  
ラベル:パリ
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2006年07月09日

歴史あるホテルの前で

ホテル・ムーリス


毎日、絵を売っていた場所はリボリ通りのホテルの前でした。

リボリ通りの歩道は屋根があって、雨が降っても大丈夫でした。

MEURICEという名のホテルでしたが、どんなホテルなのか、まったく知りませんでした。邪魔だ、目障りだと追い払われる事もなく、ベルボーイだか、フロントの人だかわかりませんが、絵を買ってくれました。ありがたかったです。

そのホテルがどんなホテルだったのか知ったのは、日本に帰って来てから、しばらくしてからです。ルネ・クレマン監督の「パリは燃えているか」という映画をテレビで観ていたら、ドイツ軍の総司令部が置かれたホテルがどうも、あのホテルらしいのです。調べてみたら、やはり、そうでした。

ホテル・ムーリスといって、パリで最も歴史のある最高級ホテルだったのです。そんな事はまったく知らずに、ホテルの入口の脇で、絵を売っていたのでした。追い払わなかったホテルの人たちには本当に感謝いたします。ありがとうございました。


フランスのホテル・ベストセレクション  パリは燃えているか?(上)  パリは燃えているか?(下)  パリは燃えているか
ラベル:パリ
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2006年07月06日

パリの都で無一文

リボリ通り


絵を売らなくてはならないと思いながら、毎日、街中をブラブラしましたが、結局、道端に店を開く度胸はなく、何もしないで、ホテルに帰って来る毎日が一週間位続いたと思います。

そして、とうとう、その日がやって来ました。お金がなくなってしまったのです。ホテルは前払いなので、出なくてはなりません。持っていたお金は5フラン位だったと思います。

暗い気持ちで、バックパックを背負って、ホテルを出ました。今晩は野宿をしなければならないのか。飯はどうするか‥‥‥この時はまだ、学生食堂の事は知らなかったのかもしれません。もし、知っていたなら、食券を持っていたはずですし、まず、腹ごしらえに学食に行ったはずです。そんな記憶はありません。

売れようが、売れまいが、ここまで来たら、とにかく、やるしかありません。ルーブル美術館からシャンゼリゼへと向かうリボリ通りにあるホテルの前で絵を広げました。言葉がわからないので、絵に値段を貼り付けました。ニースでは高すぎて売れなかったので、20〜30フランの値を付けました。

30分位経ち、やっぱりダメかと思っていた頃、絵が売れたのです。一番最初のお客さんがどんな人だったのかは覚えていませんが、感謝、感激でした。その後も何枚か売れ、初日の売り上げは、何と200フランを超えました。三時間位、店を開けていたと思います。

これは大丈夫、何とかなると確信を持って、ホテルに戻り、5日分位、ホテル代を前払いしたと思います。


◆パリで売っていた絵

No.79  No.342  No.361  No,439  No.447  No.462

 酔雲のがらくた部屋 酔中画展その1
ラベル:パリ
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2006年07月02日

1980年4月のパリ

ゴロワーズ


メトロ(地下鉄)にはあまり乗らずに、パリの街を歩き回っていたのですが、当時を思い出そうと思ってもなかなか思い出せません。話は前後するかもしれませんが、思い出した事から書いていこうと思います。

パリで一番安いホテルに落ち着いてからは、七月にパリを出るまで、ずっと、そこに滞在していました。

近くのパン屋とスーパーにはよく行きました。焼きたてのバケットはまだ暖かく、何も付けなくても、うまかったです。一本が2フランしなかったと思います。店によって、塩加減とか、焼き具合とか、微妙に味が違いましたが、どれも皆、うまかったです。フランス語には男性名詞と女性名詞があって、パンは女性名詞で、一つのバケットと言う場合、アン・バケットではなく、ユンヌ・バケットと言ったのを今、思い出しました。

スーパーでは米とブイヨンを買って炊き込みご飯を作って食べました。キャンプ用のガスコンロとコッヘルを使って、時々、自炊をしていました。ガスコンロは随分と役に立ちました。それでお湯を沸かして、コーヒーを飲んでいました。パリの水は石灰が多くて、うまくはありませんでしたが、ミネラルウォーターを買った記憶はないので、水道の水を飲んでいたのでしょう。

詰め替え用の安いワインは5フランで買えたと思います。飲んでは、空きびんを持って行って、新しいのを買って来ました。当時の私はワインの知識はまったくなく、大きなスーパーに行くと値段も様々なワインがずらりと並んでいましたが、何が何だか、わかりませんでした。金もないし、5フランのワインで充分でした。今思えば、50フラン(当時、3000円)位のボルドーとブルゴーニュを飲んでおけばよかったと思います。

すり潰したレバーを缶詰にしたものがあって、それをバケットに塗って、よく食べていました。結構、うまかったです。それと、オイルサーディンもバケットに挟んで食べていました。

学生食堂以外のレストランにはあまり行ってません。日本食のレストランでラーメンを食べたのと、中華レストランでコース料理を食べたくらいでしょうか。一度、エスカルゴを食べたのを思い出しました。味は覚えていません。サザエのような味だったのかもしれません。

道端に、サンドイッチ屋があって、生ハムのサンドイッチやフレンチポテトのサンドイッチ、辛いソーセージのサンドイッチなどはよく食べました。勿論、パンはバケットです。値段は3フラン前後だったと思います。

カフェには時々、行ってエスプレッソ・コーヒーやドゥミと呼ばれるグラス入りの生ビールを飲みました。カフェでは同じ品物を頼んでも、飲む場所によって値段が違っていたような気がします。道路に面した外が一番高くて、室内のカウンターで飲むのが安かったように記憶しています。

タバコは安いゴロワーズを吸っていました。空港の免税店ではいつも、マールボロを買っていましたが、アメリカタバコは高くて買えませんでした。確か、パリのタバコ屋にもセブンスターが売っていました。買った事はありませんが。

CAPTAINSTAG(キャプテンスタッグ) トレッキングやソロキャンプに。オーリック小型ガスバーナ...  バケット  キングオスカーオイルサーディン二段詰・106g  ボーヌ・プルミエ・クリュ・ペルテュイゾ[2003]年ドメーヌ・ジャン・イヴ・ドゥヴヴェイ家Beaun...
ラベル:パリ たばこ
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2006年06月28日

さすが、パリは芸術の都でした

歌麿の美人絵


オテル・ドゥ・マーシャル・ネイに落ち着き、心細くなった懐具合をどうするか考えながら、パリの街をブラつきました。

日本食のレストランでアルバイトでもしようかと、当時、10店位あった店を見て歩きました。何軒か声を掛けたけど募集はしていなかったのだと思います。

セーヌ川に行って、野宿ができそうな場所を捜したりもしました。

もう一度、絵を売ってみようと思い、売る場所も捜しました。

パリの大通りの道端には芸人が結構いて、道行く人たちからお金を貰っていました。道行く人たちも芸人たちの芸がいいとそれなりのお金を置いて行きます。さすが、芸術の都、パリです。

モンマルトルの丘には似顔絵を描いている画家が何人もいましたが、そこに入り込むのは難しいような気がしました。何となく、許可証のようなものが必要だと感じました。

まだ、できたばかりの近代美術館などがあるポンピドーセンター前の広場にも大勢の芸人がいました。パントマイムをやってる人や音楽をしている人、火を吹いている人たちです。

パリなら絵が売れるような気がして、絵を売ろうと決心しました。絵を売るとなれば、今持っている絵だけでは足りません。もっと、描かなくてはなりません。

日本の本を売っている書店で、歌麿の本を買いました。カラーブックスという小さな本で、歌麿の浮世絵が何枚も載っていました。値段は定価の倍位しましたが、思い切って買いました。画用紙と水彩絵の具と筆も買いました。

その日から、毎日、5、6枚の絵を描くのが日課となりました。


レンブラント ポケットボックス固形水彩絵具12色セット  フィス透明水彩セット  歌麿の美人  歌麿の風流  美の巨人歌麿と北斎
ラベル:浮世絵 パリ
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2006年06月24日

オテル・ドゥ・マーシャル・ネイ

カルチェ・ラタン


ニースからパリに戻って来たのは1980年の3月の半ば頃だったと思います。

どこのホテルに泊まったのか覚えていませんが、カルチェ・ラタンの辺りだろうと思います。近くに日本食のレストランがあって、そこで、一番安いホテルを紹介してもらい、移りました。

メトロのPort-Royal駅の近くの「オテル・ドゥ・マーシャル・ネイ」というホテルで黒人の太ったおばちゃんがやってました。ホテル代は前払いで、シングルルームが15フランだったと思います。部屋は割りと広くて、洋服ダンスに机と椅子もあり、ベッドはセミダブルでした。ただ、ベッドは古いので、デコボコしていて眠りづらかったですけど、贅沢は言えません。

そこのホテルには日本人が何人も滞在していて、色々な情報を得る事ができました。一番嬉しかった情報は、学生食堂で、5フランで食事ができるという事でした。普通、5フランではサンドイッチくらいしか食べられません。レストランに入れば、安い店でも、20フランは取られました。それが、5フランで食事ができるなんて夢のような話です。

そのホテルの近くに学生会館のような建物があって、そこで、学生証の提示なしで、10枚綴りの食券を買う事ができました。食事の内容は、フライドポテトやピラフなどの主食と肉料理などのおかずとフルーツやヨーグルトなどのデザートも付きました。バケットを輪切りにしたパンは食べ放題でした。結構、腹いっぱいになって、ほんとに大助かりです。もし、パリに学食がなかったら、パリに長居する事はなかったでしょう。


マキシム・ド・パリ詰合せ3箱セット  マルキーズ・エスカルゴチョコ12箱セット  パリの人気パティシエ【ジェラール・ミュロ 】極上の食感を持つナッツ好きには堪らない逸品【マジノワール】
ラベル:パリの学食
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2006年06月19日

ニースの道端で水彩画売り

水彩画


お金がなくなった時の事を考えて、浮世絵を描いた水彩画を20枚くらい持って来ていました。喜多川歌麿や渓斎英泉の美人絵を写したものです。

日本を出る時、ヨーロッパに行く予定はありませんでしたが、芸術に理解のあるフランスなら売れるかもしれないと思って、ニースの海岸で試してみました。

観光客が行き来している通りを選んで、ちょっと恥ずかしかったけど、意を決して、道端に絵を並べました。野宿した時に下に敷いたシートの上にクリップか何かで固定したと思います。

A4サイズくらいの大きさの普通の画用紙に描いた水彩画ですが、一枚50フランから100フランの値段を付けました。日本円にして3,000円から6,000円です。ちょっと高かったのかもしれませんが、二時間くらい頑張ってみても一枚も売れませんでした。

見てくれる人はいるのですが、やはり、売るとなると難しいものです。

パリに行けば、売れるかもしれないと思い、パリへ向かいました。

歌麿の謎美人画と春画  歌麿の美人  北斎の美人  渓斎英泉「万点水蛍」
ラベル:浮世絵
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2006年06月15日

ニースで野宿、またもや出ました、例の奴が。

ミラノのドゥオーモ


レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を見るためにミラノに行ったのですが、見たという記憶がありません。多分、改修工事か何かで見られなかったのでしょう。

何の予備知識もなく、偶然に目にしたドゥオーモには圧倒されました。すげえなあと思いながら、しばらく、眺めていました。

ミラノに泊まった覚えはないので、ドゥオーモ前の広場でボケッと過ごしてから駅に戻って、イタリアを後にしたのだと思います。

国境を越えてフランスに入り、何を思ったのか地中海を眺めながら海岸沿いを歩きました。多分、懐が寂しくなったので節約したのでしょう。どこから歩き出したのかは覚えていませんが、ニースまで歩きました。

途中で暗くなって、道の脇の草むらで野宿をしました。持って来た寝袋が初めて役に立ったのです。3月の初め頃だったと思いますが、寒くはなかったようです。

朝になって歩き出したら、車が突然、横に止まって話し掛けて来ました。ニースまで行くと行ったら、乗せていってやると言います。ビジネスマン風の紳士に見えたので、親切に甘える事にしました。

片言英語で何を話したのか忘れましたが、その紳士は運転しながら、だんだんと私の足を撫でて来るのです。

私は男の顔を見て、またか、と思いました。私はきっぱりと否定して降ろしてくれた頼みました。その男が怒っていたかどうかは覚えていませんが、降ろしてくれました。

今思えば、トランクに積んだ荷物を持って行かれなくてよかったと思います。あそこで、すべての荷物を失っていたら、どうなっていたやら。きっと、今とは違った生き方をしていた事でしょう。

ほんとにヨーロッパにはゲイが多すぎます。


アクア・ブルー  赤い航路  ボディ・フォー・セル  
ラベル:野宿 ゲイ
posted by 酔雲 at 09:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅-4(フランス編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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